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医王山 多禰寺

(真言宗東寺派 本尊 薬師瑠璃光如来)


山の色が秋色に染まり始めたのですが連日雨や曇天のうっとうしい天候。

裏日本独特の天候に対して舞鶴では「弁当忘れても傘忘れるな」と言うことわざがある。

今日も天気予報では曇り時々雨、おまけに濃霧注意報も出ている。

でも霧が消えると青空が広がる場合も多い。

五老ヶ岳の山頂ライブカメラを見ても真っ白で山頂まで霧に包まれている。

いつもと違う雲海でも見るかと三浜峠に向かって傘を持って出発。

三浜峠のふもと、赤野の集落で大銀杏発見。

でも深い霧が立ち込めてくすんだ色合い。陽射しのある日に再挑戦したい光景です。





三浜峠のてんぺん、舞鶴自然文化園のメタセコイヤ並木も色づいてきたのですが深い霧の中。

峠を越えれば見えるはずの若狭湾の眺望も霧、霧、霧。

三浜峠を降りるのを止めて、左折して多禰寺に向かう事に。




山門に至る急坂の石段。

昔はふもとの赤野から徒歩でこの参道を登ったようですが、

今は自然園の横からの道路を使えば楽々に参拝出来ます。




運慶作の金剛力士像(重文)が宝物殿に移転して、主なき仁王門は何故か鐘楼に変身。




身の丈4m近い壮大な金剛力士像一対を拝観しましたが、

手足には浮き出た血管まで刻まれた力強さ、

筋肉質のどっしりとした中にも均整のとれた体形、

少し湾曲した体勢でありながら2本足で自立している重心の配分。

この小さな山門に入っていた事が信じられないような立派な作品でした。

(撮影禁止で写真はありません。是非実物を拝観して下さい。)





木札には「用明天皇勅願所」・「麻呂子親王開基」の文字がかすかに。








多禰寺由緒

今を去ること1300余年の昔

両丹(丹波・丹後)を支配した豪族が乱を起こし、

時の帝(みかど)用明天皇は第三皇子麻呂子(まろこ)親王に追討の勅命を下し、

激しい戦いも大江山の攻防を最後に平定されました。

世の平安を願う親王は護持仏薬師如来を本尊にこの多禰寺を創建されました。



上記はお寺で貰ったしおりに書かれている由緒であり、

Netで検索しても何処のページでもほぼ同じ内容です。

蛇足ながらどうでもいい解説を少々。


日本に仏教が伝わったのが西暦538年、第29代 欽明天皇の時代とされる。

第30代 敏達天皇、第31代 用明天皇(いずれも欽明天皇の子)と続く。

用明天皇は病弱で在位も短かかった(585年9月~587年4月)が、

崇仏派であり仏法を重んじて、天皇として初めて三宝に帰依し

自らの病気の平癒を祈って寺と仏像を造ることを誓願されましたが実現の前に崩御された。

そのご遺願を継いで用明天皇の子である聖徳太子(麻呂子親王の兄、義兄説も)が

推古天皇と共に607年に建立したのが法隆寺であると伝えられています。


また612年に麻呂子親王によって建立された河内の万法蔵院が

奈良県葛城市の古刹 當麻寺(たいまじ)の前進とも言われる。


寺伝による用明天皇の時代にこの多禰寺が創建されたのであれば

遅くとも587年であり有名な奈良の古刹よりもまだ古い歴史がある事になる。


丹後地方にはこの麻呂子親王にまつわる伝説が多くのお寺に残っているそうですが

中には大江山の鬼退治伝説と同一視されているものもあるようです。

大江山のふもと、福知山の長安寺の寺伝には

鬼を退治した麻呂子親王が刻んだ薬師如来を奉納するとある。


神話や伝説にまで遡る由緒であるが、お寺が実在するのは事実である。









四国八十八ヶ寺を模したお地蔵さんも祀られているようです。







薬師寺を一番とする西国薬師霊場の三十番札所。








往時は七堂伽藍の甍が山並みに映え、

七仏薬師の霊場として香煙が絶ゆることなく門前市が軒を連ね賑わったそうです。


この多禰寺に至る山道を更に進み、大浦半島の最西端に行くと大丹生に出ます。

丹生(にゅう)とは水銀産地の代名詞とも言われ、

大丹生の隣の千歳(ちとせ)では火力発電所建設の事前調査で、

6000年以上も前の縄文時代の大きな丸木舟が発見されたり、

古墳や塩田跡、製鉄炉跡等の遺跡も多く見つかっています。

古くから人が住み、文化があり、そしてその営みの中で仏教を信仰し

この多禰寺も栄えていたようです。








本堂前の広い境内が綺麗に手入れされています。

人里離れた山奥のお寺ですが古刹としての格式が伺えます。



本堂脇には落ち葉の山。本堂前はやはり丹念に清掃されているようです。







本堂脇には夫婦木と名付けられた、複雑なたもの木の古木。




左の木の太い枝が右の木の幹と完全に合体。

更にその木が伸びて元の木と再度合体。



桃山時代の古庭園






参拝と徘徊を終えて帰る頃、眼下の東舞鶴の市街地はまだ霧の中に・・・



18.11.22 舞鶴市大浦半島 多禰寺にて



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