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鹿原山 慈恩寺 金剛院
(真言宗東寺派 本尊 波切不動尊)
紅葉の名所、鹿原の金剛院の境内がいい色に染まって来ました。
いつもは小川をはさんで対岸からの撮影、中々良い光景に恵まれなかったので、
本堂で拝観して、良い写真が撮れますようにとお願いしたのですが、果たしてご利益は・・・・。
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金剛院由来 平安時代初期の天長6年(829) 第51代 平城天皇の第三皇子、高丘(たかおか)親王によって創建されました。 高丘親王は 第52代 嵯峨天皇の皇太子でもありましたが 世の無常を感じて仏門に入り、法名を真如(親王)と称し 弘法大師の十大弟子の一人として仏教の興隆に尽くしましたが 更に法を求めて天竺に向かい途中消息を絶ちました。 上記がお寺で貰ったしおりに書かれている由来の冒頭でありますが、 蛇足ながらどうでもいい解説を少々。 平城天皇の第三皇子であり、嵯峨天皇の皇太子でもあるとはどやさ? 第51代 平城天皇、第52代 嵯峨天皇、第53代 淳和天皇は何れも 第50代 桓武天皇の子であり兄弟です。 平城天皇は即位したとき(806年)病弱でありその子、高丘親王も幼少だったため、 桓武天皇の意向により神野親王(後の嵯峨天皇)を皇太弟とした。 平城天皇は(809年)発病により譲位を決意し、 嵯峨天皇が即位して、高丘親王が皇太子になった。 退位した平城上皇は旧都平城京へ移ったが、 嵯峨天皇との確執が生じ、二所朝廷といわれる対立が起こり、 藤原薬子(くすこ)の変に至った。 高丘親王は皇太子を廃され、代わって嵯峨天皇の弟の大伴親王(後の淳和天皇)が立てられた。 この事件が由来で言う世の無常を感じ、仏門に入る理由だったようですが高丘親王11歳の事。 弘法大師の十大弟子の一人となり、阿闍梨の位をうけ、高野山に親王院を開いた。 晩年(864)唐の長安に渡ったが、当時の長安は仏教が衰退の極みであった為、 更に天竺(インド)へと向かったが途中で消息不明となった。 その後、マレー半島の南端あたりで死亡したと伝えられ、。 近年マレーシアのジョホーバルに真如親王の供養等が建立された。 子孫は在原氏を称し、在原業平は甥にあたる。 |
三島由紀夫の小説『金閣寺』にこの金剛院の紅葉や境内の状況が描写されています。 金閣寺を放火焼失させた学僧の 生まれや生い立ちの部分はさらっと流して読み飛ばして下さい。 |
一般には細川藤孝と記載されるのですが、 舞鶴では細川幽斎、もしくは単に幽斎でも通用します。 細川藤孝は知らないけれど幽斎は知ってるという人もいるようで・・・ お盆になると各地区や町内で盆踊りが行われますが、 その「舞鶴音頭」の冒頭の歌詞が ♪舞鶴風流まず第一は、古今伝授の幽斎さまよ~ 子どもの頃から耳に焼き付いているようです。 幽斎さまについては、田辺城跡公園での花見の頃にまた詳しく・・・・ |
金剛院文化財(国指定重要文化財)
境内には多くの寺宝を収蔵した宝物殿がありますが、 紅葉の時期を避けたほうが丁寧な説明でじっくり鑑賞が出来ると思われます。 |
18.11.25 舞鶴市鹿原 金剛院にて