青葉山 松尾寺

(真言宗醍醐派 本尊 馬頭観世音菩薩)

西国三十三巡礼霊場の二十九番札所 松尾寺(まつのおでら)です。

ここにも大きな由緒ある銀杏があったのを思い出し、

散りはてて無い事を願いつつ、青葉山の中腹まで急ぎました。

国道から参道へ入ると目の前に霊峰青葉山がそびえます。



標高699mの死火山の山頂には溶岩が転がり、
1m分積み上げて700mにしようと子どもの頃山頂で遊びましたが・・・

最近の地図では西峰692m、東峰693mと記載されてます。
1m低い西峰(左)が京都府と福井県の県境。
山頂の東峰(右)は福井県で、
福井県側の海岸から2つの峰が重なって見える雄大な姿から、
別名若狭富士とも呼ばれています。

日本でここにしか生息しないオミナエシ科のオオキンレイカが咲くようで、
来夏が楽しみですが、果たして見つけられるか・・・




お寺の手前に大きな黄色いもみじ。赤くならずに散っていく品種のようです。



山門下に参拝者を迎えるように形のいいもみじが、まだ葉を残していました。



やっぱり仁王門に金剛力士像が安置されてると様になります。




松尾寺沿革

時に慶雲年中、唐の僧、威光上人が当山の二つの峰を望んで、
中国に山容の似た馬耳山という霊験のある山があったことを想起された。

登山したところ、果せるかな松の大樹の下に馬頭観音を感得し、
草庵を結ばれたのが和同元年(708年)と伝えられる。

元永二年(1119年)には、鳥羽天皇、美福門院の行幸啓があり、
寺領四千石を給わり、寺坊は65を数えて繁栄した。
当地方唯一の国宝の仏画も、美福門院の念持仏であったと言われる。

その後、織田氏の兵火によって一山ことごとく灰塵に帰したが、
天正九年(1581年)細川幽斎の手によって復興をみ、
京極家の修築等を経て
享保十五年(1730年)牧野英成によって、漸く今日の姿を整えるに至った。



上記がお寺で貰ったしおりに書かれている沿革の要旨です。

蛇足ながらどうでもいい解説を少々。


細川幽斎、京極家、牧野英成は夫々田辺城(舞鶴市)の城主です。

天正六年(1578年)織田信長の命によって丹後を制圧した
細川幽斉にこの丹後国が与えられました。
宮津城を本城とし、分城として田辺城を築き、
嫡男の細川忠興が入城しました。

細川忠興の後、京極高知が入城し(1600年)、京極高知の遺言により
嫡男・高広が宮津藩7万5千石、
次男・高三が田辺藩3万5千石、
養子・高信が峰山藩1万3千石、
を相続して、ここに田辺藩が誕生しました。

3代続いた京極家のあとに牧野親成が入城し(1668年)、
以後牧野家による藩政が幕末まで10代続いた。
牧野英成は親成、富成に続く三代目。

廃藩置県において紀伊田辺藩との混同を避けるため、
田辺城の別名であった舞鶴城にちなんで、舞鶴県が誕生。
舞鶴の地名の由来です。








本堂手前までは、まだかすかに赤い紅葉が残っていたのですが。



本堂脇の黄色いもみじと、銀杏で境内は黄色一色。



本尊の馬頭観音にちなんだ馬の像。



西国三十三霊場の中では唯一観音像を本尊とする。

優しい顔立ちの観音像の中で憤怒相という異形ではあるが、

農耕や牛馬畜産、車馬交通の守り仏として広く信仰され、

最近は競馬関係者や万馬券に夢を賭ける参拝者もいるとか。












鳥羽天皇お手植えと伝わる大銀杏。

推定樹齢870年、根回り6mの巨木です。
















山頂へと続く登山道の入り口付近や、
境内の赤いもみじは殆ど散った後でした。







松尾寺文化財

国宝 仏画 普賢延命菩薩像 平安時代

重文 仏像 阿弥陀如来坐像 (快慶作)

重文 仏画 孔雀明王像    鎌倉時代

重文 仏画 法華曼荼羅    鎌倉時代

重文 仏画 如意輪観音像   鎌倉時代


舞鶴市内唯一の国宝を含めて多くの寺宝は、

京都国立博物館にて保管されているため、お寺での拝観は出来ません。


重要無形民族文化財  仏舞(ほとけまい)

大日如来、釈迦如来、阿弥陀如来の三像の面を着けて
越天楽の譜に合わせて優雅に舞う。毎年5月8日に奉納される。





おまけ

市内にある道標は文政13年(1830年)銘。
1922年築の木造瓦葺、JR松尾寺駅舎。



車社会への変遷でJR利用の巡礼者もめっきり減って今は無人駅。
駅長代理のニャンコが人恋しい顔で来客を待ち侘びていました。



18.12.02 舞鶴市松尾 松尾寺にて



戻る